心経奉讃文について

験者や在野の祈祷師等に多く読誦されるものに『心経奉讃文』と云うものがあります。著者不明で成立年代も未審です。

拙僧は基本姿勢として意趣分明ならざる祈祷文は一切取り扱いません。御宝前で誦者自身が意味を理解せず文言も支離滅裂なものを囀るは却って謗法そのもので、法燈を断ずる事に外なりません。

此の奉讃文は大要としては素晴らしいものです。実用には嫌いを孕んでおりますので私に再治を致しました。現在相伝する本の文句は調べてみてください。難点としては数箇所あります。

「天台経七十巻」…私が真言僧だからということではなく天台経なるものは有りません。天台の宗旨は法華一乗ですから敢えて言い替える事も出来ますが七十巻との整合性が失われます。この巻数に注目した上で後半で法華経が挙がっている事から除外して考察します。次いで天台で重要視される経典は涅槃経です。天台経との表現も巻数も大枠としては符合します。論疏も調査しましたがこの説が一番妥当かと思います。この時点で心経を読経する諸宗に於ても諷誦に適うでしょう。

「毘沙経六十巻」…是れを名目から毘沙門経や毘盧遮那経と解説する人師もいらっしゃりますが巻数が余りにも違います。前に指摘した通り巻数と名目を基に勘案すれば『大毘婆沙論 二百巻』玄奘三蔵新訳以前の浮陀跋摩の『毘婆沙論 六十巻』を指すか。経でなく論と訂正するだけで意味が通ります。経論の選出の基準は作者のみ知り得るところですが、少なくとも諸経論を広く列挙した上でこの心経の勝れたるを讃歎している事には変わりありません。

他、丁寧で無いと判じた言い回しやルビを治しました。一例として「給う可し」の「可」は仏教語の用法として”許す”と云う義です。心願の成就を許すとは傲慢な文体になります。私案の再治本ですが是非お唱え頂けましたら幸いです。謬りあれば更に後哲の人師に譲りたい。

沙門俊玄 合掌

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